2009年11月26日

「読んでいない本について堂々と語る方法」

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ピエール・バイヤール 著
大浦 康介 訳
筑摩書房 出版

 タイトルからはハウツー本のように見えますし、実際に導入部分ではそういう意味のことが書かれています。著者は大学教授という立場から読んでいない本を語る必要に迫られることが多く、その点では本にできるほどの経験を重ねていると。しかし、未読本を語る方法を本当に教授しようとしているわけではありません。未読本に対する評価を控えるな、ということを説くために、本を読むとはどういうことかを掘り下げて考えている本です。

 本ということばを使うとき、通常は集合体としての本です。そして、本が集まっている場所といえば、図書館です。著者は、その図書館ということばを自分なりのことばで分類し紹介しています。共有図書館、内なる図書館、ヴァーチャル図書館です。

 共有図書館は「ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。」ある時点で、と限定されているのは時代によって評価が変わってくるからでしょう。この共有図書館の価値は、その時代の評価における構成要素間(一冊の本だったり、本のまとまりだったり)の関係をどれだけ把握されているかによって決まります。つまり、一冊一冊読んでいることよりも、数多く「一連の重要書」を認識し判断できるかによって充実度が決まるわけです。つまり、その充実度で教養の度合いが決まるというわけです。

 内なる図書館は、「<共有図書館>の下位に分類されるべき集合体で、それにもとづいてあらゆる人格が形成されるとともに、書物や他人との関係も規定される。<内なる図書館>を形成しているのは、忘れられた書物や想像上の書物の断片である。」

 ヴァーチャル図書館は、「書物について口頭ないし文書で他人と語り合う空間である。これは各文化の<共有図書館>の可動部分であって、語り合う者それぞれの<内なる図書館>が出会う場と位置している。」

 本を読むという行為によって、内なる図書館は充実するでしょう。しかし、ヴァーチャル図書館が充実することによって、内なる図書館にも変化が表れるでしょう。このあたりが、本について語る意味、本について語ることを躊躇うべきではないという指針の根拠があるのでしょう。

 著者は「重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語るということ」だと言っています。言われてみればその通りなのですが、これは内なる図書館の定義にも通じています。本の集まりである内なる図書館が人格を形成するのですから。また、著者は「重視すべきは、何らかのアクセス可能な与件を出発点とした、作品と自分とのさまざまな接触点だということになるからである。」と続けています。

 いままで、わたしのなかでぼんやりとしていて形を成さなかった本を読むという行為の意味が、わかった気がします。
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2009年09月03日

「橋をかける―子供時代の読書の思い出」

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美智子 著
すえもりブックス 出版

 この本に収められているのは、1998年9月20日から24日までインドのニューデリーで開催された国際児童図書評議会−−International Board on Books for Young People (IBBY) −−第26回世界大会において、ビデオテープによって上映された皇后さまの基調講演を文書化したものです。日本語と英語の両方が収められています。

 Amazon.comのユーザーレビューで知ったのですが、この本の内容は宮内庁のWebサイトでも公開(子供の本を通しての平和−−子供時代の読書の思い出)されています。わたし自身は本というかたちも含め本が好きなので、この本を読めてよかったとは思いますが、わざわざ本を入手しなければ読めない内容ではありません。

 テレビなどで見る皇后さまの穏やかな眼差しを感じさせる柔らかで品のある日本語で綴られています。ただ、皇后さまの幼少時代なので、戦争の時期とも重なり、明るい話題ばかりとはいい難いのですが、その経験談があればこそ、本の大切さがしみじみと伝わってきます。

 わたしは本に恵まれた時代に育ったわりには、本を読みませんでした。もっと読んでおけば良かったと思うほどです。だからなおさら、物資の乏しい国の子供たちが本を読めないと聞けば、心が痛みます。皇后さまが基調講演なさったことによって、この本ができたことによって、国際児童図書評議会の活動を知る人が増えたことを願っています。
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2009年04月24日

「本を読む本」

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Mortimer J. Adler/Charles Van Doren 著
外山 滋比古/槇 未知子 訳
講談社 出版

 著者は、本を読む段階を「初級読書」「点検読書」「分析読書」という感じでわけています。たとえば、分析読書は以下のように、さらに段階わけされます。とても、論理的で体系的です。
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T 分析読書の第一段階
−−何についての本であるか見分ける−−
(1) 種類と主題によって本を分類する。
(2) その本全体が何に関するものかを、できるだけ簡潔に述べる。
(3) 主要な部分を順序よく関連づけてあげ、その概要を述べる。
(4) 著者が解決しようとしている問題が何であるかを明らかにする。

U 分析読書の第二段階
−−内容を解釈する−−
(5) キー・ワードを見つけ、著者と折り合いをつける。
(6) 重要な文を見つけ著者の主要な命題を把握する。
(7) 一連の文の中に著者の論証を見つける。または、いくつかの文を取り出して、論証を組み立てる。
(8) 著者が解決した問題はどれで、解決していない問題はどれか、見きわめる。未解決の問題については、解決に失敗したことを、著者が自覚しているかどうか見定める。

V 分析読書の第三段階
−−知識は伝達されたか−−
(A) 知的エチケットの一般的心得
(9) 「概略」と「解釈」を終えないうちは、批評にとりかからないこと。(「わかった」と言えるまでは、賛成、反対、判断保留の態度の表明をさし控えること)
(10) けんか腰の反論はよくない
(11) 批評的な判断を下すには、十分は根拠をあげて、知識と単なる個人的な意見を、はっきり区別すること。
(B) 批判に関してとくに注意すべき事項
(12) 著者が知識不足である点を、明らかにすること。
(13) 著者の知識に誤りがある点を、明らかにすること。
(14) 著者が論理性に欠ける点を、明らかにすること。
(15) 著者の分析や説明が不完全である点を、明らかにすること。
<注意>(12)(13)(14)は、反論の心得である。この三つが立証できない限り、著者の主張に、ある程度、賛成しなくてはならない。そのうえで、(15)の批判に照らして、全体について判断を保留する場合もある。
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 読み進めていくうちに、いままでの自分の本読みに対して不安になってきました。いい加減に気の向くまま本を読んできたわたしの姿勢は、著者に失礼だったかもしれないと思ったり、無駄に本を読んできたのかもしれないと思ったりしました。

 でも、わたしが実践してきたような、身をゆだねるような本の読み方が肯定されている部分を見つけました。
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 積極的に読書することはどんな場合にも大切だが、「教養書」と文学書とではその姿勢に違いが出てくる。「教養書」を読むときは、目をいつもタカのように光らせて、すぐにでも襲撃できる態勢になくてはならない、しかし、詩や小説を読むのにこれでは困る。その場合には、いわざ積極的な受け身とでも言うべき姿勢が必要である。物語を読むときは、物語が心にはたらきかけるにまかせ、またそれに応じて心が動かされるままにしておかなくてはいけない。つまり、無防備で作品に対するのである。
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 わたしの本の読み方は、小説などに向いているのでしょう。何かを研究する、何かを実践する指南を求める、という目的には不向きのようです。逆に、何かを研究したくなったら、最初にこの本を「点検」したいと思います。さらに、ある主題に沿って本を読もうとする場合、この本に書かれている「シントピカル読書」が役に立ちそうです。「シントピカル読書」とは同一主題について二冊以上の本を読むことです。多数の文献にあたり、その論点を比較し、戦わせることです。著者はこれも、段階わけしています。
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シントピカル読書の五つの段階
第一段階 関連箇所を見つけること。
第二段階 著者に折り合いをつけさせる。
第三段階 質問を明確にすること。
第四段階 論点を定めること。
第五段階 主題についての論考を分析すること。
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 全体を通して興味深いと思ったのはやはり、本を一方通行の媒体を扱っていないことです。「著者と折り合いをつける」という表現自体、双方向性を感じます。本がいかに価値のあるものか、と思うと同時に、これだけの価値に見合わない本も多く、上記の分析読書の前の「初級読書」や「点検読書」の段階で「分析読書」へ進まないという判断をすることは、大切なのでしょう。

 そうはいっても、やはり、何か研究したいことが出てくるまでは、自分が興味を持てるものを探すために、身をゆだねて本を読んでしまいそうです。


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2009年02月25日

「世界は村上春樹をどう読むか」

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国際交流基金 企画
柴田 元幸/藤井 省三/沼野 充義/四方田 犬彦 編
文藝春秋 出版

 サブタイトルが、"A Wild Haruki Chase"。これは、"Wild-goose chase"の「もじり」だそうです。追いかけても追いかけても、捕まえられない春樹ってことなのでしょうか。

 帯には、"17カ国・23人の翻訳者、出版社、作家が一堂に会し、熱く語り合った画期的なシンポジウムの全記録"とあります。

 ここでいうシンポジウム「国際シンポジウム&ワークショップ 春樹をめぐる冒険−−世界は村上文学をどう読むか」が開催されたのは、2006年3月25日・26日(東京)と29日(札幌・神戸)。ずいぶんと盛況だったようで、あらためて村上春樹人気を思い知ったという感じです。(しかも、シンポジウムの内容が本というかたちでも記録されているわけですから、尋常ではありません。)

 各国から翻訳者が集まり、各国での春樹文学の受け入れられ方の違いや、各国の装丁の違いを比べています。比較してはじめて見えてくることもあり、楽しめます。しかし、一番印象に残っているのは、やはり翻訳の難しさです。

 文化の違いを意識しながら、別の言語に訳すわけですから、難しい点はいろいろあると思うのですが、今回は村上春樹の作品独特の難しさが伝わってきました。

 ひとつめは、村上作品独特のおかしみを伝える難しさ。たとえば、日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字など表記方法が多彩です。そういう仕組みを利用して、おかしく仕上げている作品(例に挙げられているのは、「夜のくもざる」)を訳すのは大変です。意味があるように聞こえて、実は意味のないことを並べ立てているセリフなど、どう訳するのか、迷う気持ちが翻訳者から伝わってきます。また、普通ではありえないことを、淡々と話している場面なども、意外性などをそのまま伝えるのは困難でしょう。例として挙げられている短編「スパナ」は、「真由美が最初に鎖骨を砕いた若い男は、スポイラーのついた白いニッサン・スカイラインに乗っていた」と始まります。鎖骨を砕くなどという非日常をいきなりもってくる「おかしみ」を損なわないようにするのは至難の業に思えてきます。

 ふたつめは、固有名詞が多い点。言われてみると、商品名や曲名など、その時代を象徴するようなかたちで、頻出するような気がします。商品名などは特に、国によっては発売されていなかったり、別の名前になっていたり、簡単に転記できない難しさがあります。

 わたしは、あまり村上作品を読んでいませんが、この本で翻訳者の思い入れや人気の高さが伺えると、ミーハー気分で少し読んでみたくなりました。
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2008年11月13日

「海外短編のテクニック」

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阿刀田 高 著
集英社 出版

 阿刀田氏が直木賞候補にもなった小説家だということは知っているのですが、やはり、わたしの中では「旧約聖書を知っていますか」や「新約聖書を知っていますか」のイメージが強く、扱われている作品の分野が海外短編とかわっても、阿刀田氏の文学エッセイなら楽めるのでは、という期待から手にした一冊です。

 帯にはこうあります。「レトリックとトリック、視点、書き出し、ストーリー性・・・・・・。あなたも書いてみますか?」

 でも、この本を読んで、わたしもこういうテクニックを使ってみて書いてみよう、とは思わないのではないでしょうか。有名どころの短編小説のあらすじや作家自身の略歴の割合が多すぎて、文学的な技巧については、あまり触れられていないです。

 でも、まったくないわけではありません。「そういわれてみれば、そうかも」と思ったのは、次です。
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 大空の視点

 そう言えば、私は大空の視点というものを提言したことがあった。大空には太陽や月や星がある。太陽が出ているときは月や星は消えてしまう。月が輝けば星は消える。ちょうどこのように、太陽に匹敵する第一の登場人物が登場しているときは、すべてこの人の視点で綴られる。彼がいなくなると、第二の登場人物、月の視点になる。月がいなくなれば星の視点となる。段階的に、一定の法則をもって視点が変わる、というわけだ。こんな小説もありそうだ。
 このように考えてくると、小説における視点の問題はけっして単純明快なものではなく、まだまだ考え尽されていないようだ。
 目下のところ、私は、
「視点の問題って政治家の汚職みたいなものじゃないの」
とジョークを吐いている。
 つまり、だれしもが違反をやっているのだ。ただ見つかったら、いけない。政治家はそうである。ちがいますか? 同様に、熟練した作家も違反をやっている。が、やっても読者に見つからない。技が巧みなので意識されないのだ。
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 比喩が阿刀田氏らしいです。視点は、読むときには意外と意識していないものです。書くときには考えざるを得ませんが。

 作家や作品の個性も、やはり阿刀田氏らしく形容されています。ただ、すでにその作家の作品を複数読まれている読者にとっては、意見が分かれるところでしょう。

 わたしのように、たいして有名作家について知らない人間のほうが、読みたい気持ちを持てたりして、この本の読者に向いているような気がします。特に「短編」というところが、実際に読むとなっても、気軽に取り組めそうですから。
posted by 作楽 at 00:10| Comment(1) | TrackBack(0) | 和書(本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする