2024年03月17日

「小さな町」

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ソン・ボミ 著
橋本 智保 訳
書肆侃侃房 出版

『私の夫は三十六歳だが、新聞や雑誌を切り抜いてスクラップしている』という一文で始まるこの本を読むうち、スクラップブックがひとの人生を象徴するものに見えてきました。

 ひとは、自身のことでさえ、すべてをわかっているとはいえず、まして自分以外のひとのことは、その一部を見ているに過ぎないことをあらためて思い知り、それがまるでスクラップブックのようだと感じたのです。

 あるひとの人生を第三者が見たとき、そのひとのほんの一部だけを見て、スクラップするようなイメージです。各人の取捨選択は異なるため、同じひとの人生も、スクラップするひとによって違って見えるに違いありません。もしかしたら、自分自身を含め、見たい部分だけをスクラップブックにして、ひとの人生だと思いこんでいることもありえます。

 ただ、この物語のスクラップブックは、主人公の人生における点のひとつが切り抜かれている点に意味があります。遠い世界のできごととして報じられた記事が、主人公の人生に点在する数々のできごとのひとつとして、ほかの記憶と線でつながれていきます。その過程の叙述には、なぜか惹かれます。

 主人公が、ある小さな町で過ごした幼きころの記憶を辿り、父との再会を機にその記憶を違ったかたちで認識する過程を読みながら、なぜか自身の昔が呼び起されると同時に、自分の記憶の不確かさをあらためて感じました。
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2023年10月31日

「書記バートルビー/漂流船」

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ハーマン・メルヴィル (Herman Melville) 著
光文社 出版

おいしい資本主義」の著者は、「書記バートルビー」は、『現代の労働問題の根源を、予言的に嗅ぎつけた作品』だと評し、その導入部分を紹介したあと、『このあとどうなるかは、ぜひ小説そのもので確かめてほしい』と書いていました。バートルビーは、『書記として決められた自分の仕事以外の、ちょっとした雑用、使い走りだったりなんだったりを頼むと、礼儀正しく、しかしきっぱりと、断って』しまう人物で、『他人と同じようにふるまうことを、やんわりとだがしっかり要請される』と著者が述べる、現代の状況に流されているわたしから見て、羨ましいような羨ましくないような人物像で、その行く末を見たくなって読んだのです。

 メルヴィルは、何かしら思うところがあって、これらの作品を書いたに違いないのですが、何を思って書いたのかは判然としません。訳者あとがきで、「漂流船」はこう説明されています。『メルヴィルはこの作品の底流にある奴隷制批判を露骨に描写することは巧妙に避けている。なぜなら黒人に対する根強い差別意識を持つ大衆が広範に存在する中で、文学作品に政治的メッセージをダイレクトに表出することは、反発されるだけではなく、危険でもあることがあらかじめ想定されたからである。』

「書記バートルビー」は 1853 年 (メルヴィル 34 歳の年)、「漂流船」は 1856 年 (同 37 歳の年) の発表です。奴隷制批判を大っぴらにできない時代だったことは間違いありません。だからこそ、「漂流船」は、奴隷制に疑問を抱かない多数派のなかのひとり、アメイサ・デラーノ船長の視点で進み、かつ、人種差別を是とする彼があたかも善人であるかのように語られているのかもしれません。

 構図は「書記バートルビー」も同じです。バートルビーの雇用者の視点で顛末が語られ、被雇用者に対する理解が深く寛大な人物かのように描かれています。具体的には、雇用者は、『1 フォリオ (百語) につき 4 セントの一般的な歩合給で写字の仕事』をバートルビーにさせるほか、一般的な慣習をもとに、写字したものを読み合わせたり、郵便局まで使いに出たりする雑務も指示し、何度か指示に逆らわれても、ある程度は拒絶を受け入れ、自らを寛大に見せます。しかし、最終的にバートルビーは追いこまれていきます。つまり、慣習を正とし、バートルビーを追いこむ雇用者に対し、メルヴィルは批判的だったのかもしれません。

 これは、現代日本におけるサービス残業に似ているように思えます。雇用され続けるためにはサービス残業をしなければならない環境というのは現存します。そして、ほかの被雇用者がサービス残業を続ける限り、ひとりだけ抗うことができないのも同じです。バートルビーは、どうすればよかったのでしょうか。なぜ雑務を拒絶するのか説明すれば、そこで生意気だというレッテルが貼られてしまったのではないかと思います。逃げればよかったのかもしれませんが、逃げる先がなかったのかもしれません。

「漂流船」のような人種差別は少しずつですが改善されてきました。しかし、「書記バートルビー」に描かれるような問題は、闘ってなんとかなる場合ばかりではありません。共倒れになるリスクを孕み、結果的に逃げる先を探さざるを得なくなる可能性もあります。簡単に解決できない問題だけに、これらの作品で提示されている問題に古さは感じられませんでした。

「書記バートルビー」を読んで頭に浮かんだのは、数十年ぶりと言われる類のストライキが複数の業界で起こっていることです。ただ、バートルビー自身は、何を問題だと思っているのか一切語らず、ただ仕事を断るのみです。要求を連ねるストライキと違って、バートルビーが語らないゆえ、いつまでも気になってしまいます。そういう意味では、作品として成功しているのかもしれません。
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2023年09月03日

「異常 (アノマリー)」

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エルヴェ・ル・テリエ (Hervé Le Tellier) 著
加藤 かおり 訳
早川書房 出版

 本作を読み終えてから、巻末の著者紹介に目を通し、なんとなく納得できました。特に『1992 年より、国際的な文学グループ <潜在的文学工房 (ウリポ)> のメンバーとして、小説の新しい形式と構造を探求する作品を発表』の部分です。随所に、ユーモアが散りばめられていると同時に実験的要素が感じられたからです。雑誌の Oulipo (ウリポ) 特集を読んだとき、似たような遊び心を感じたことを思い出しました。

 たとえば、登場人物のひとりに作家がいて『異常』という本を上梓し、ベストセラーになります。読みながら、いま読んでいるこの本のことが頭をよぎりました。しかし、彼は、死ぬほど怖い経験をしたものの、自然現象として片づけることが可能な事象を経験しただけで、本当の『異常』を見る前に自ら命を絶ちます。そのあと、本当の『異常』を記した本が出版され、それがいま読んでいる本なのだろうかと思わせられます。

 原題『アノマリー (L'Anomalie)』は、日本語では金融関係でよく見られることばです。理論的に説明できなくとも実際によく見られる事象などを指し、『異常』のほか『変則』や『例外』とも訳されることばです。

 本作では、現実的に起こってしまったけれど、どのように実現したのか解明できない事象を指し、その状況が読者の思考実験を促すようになっています。わたしの場合、読み始めは、次々と登場人物があらわれるのを見て、群像劇のようだと思いながら読み進め、途中 SF 作品なのかと思い始め、『異常』が明確に提示されたあとは、どんな作品か分類することもできず、結末を知りたくて読み急ぎました。不可解な事象に対して登場人物がそれぞれ異なった反応を示すにつれ、もしわたしが同じ場面に直面したらどうするだろうかと考えさせられました。

 本作は、フランスで最高峰の文学賞ゴンクール賞を受賞したそうです。古典的なテーマながら、置かれた立場が異なる登場人物それぞれの状況を考えるうち、それまで見ようともしなかった自分が見えてきたこともあり、文学作品として評価されたのもわかる気がします。

 わたしが一番好きな場面は、この『異常』に対し、政府が最初に事象を確認したときにとった行動とそれ以降との格差が示されながら、バタフライ効果を思わせる描写が続くエンディングです。既知になったことに対し、人が現実的かつ淡々と対処するところも、人が関知できることの少なさを感じるところも、染み入りました。
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2023年07月15日

「はてしない物語」

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ミヒャエル・エンデ (Michael Ende) 著
上田 真而子/佐藤 真理子 訳
岩波書店 出版

 岩波少年文庫なので、児童向け書籍と思ってしまいがちですが、使われていることばといい、壮大な世界観といい、主人公が自分を見失ってしまう過程といい、おとなが読んでも楽しめるよう書かれていると、わたしは思います。

 主人公のバスチアン・バルタザール・ブックスは、落第経験があり、運動も苦手で、誰からも注目されず、空想の世界に逃避しがちな小学生です。父でさえ自分の存在を疎ましく思っているのではないかと思っている彼が、『はてしない物語』という本の冒険譚を楽しみ自分をヒーローと考えるようになるまでが物語の前半で、自ら冒険するのが物語の後半です。

 バスチアンは、『はてしない物語』を読み始めてすぐ、心のなかでこう呟きます。「ごくありきたりの人たちの、ごくありきたりの一生の、ごくありきたりの事がらが、不平たらたら書いてあるような本は、きらいだった。そういうことは現実にであうことで十分だった。そのうえ何を今さら読む必要があるだろう? まして、何か教訓をたれようという意図に気づくと、腹がたった。事実、その種の本というのは、それがはっきりわかるかぼやかしてあるかは別として、常に読者をどうかしようという意図で書かれているものだ」

 訳者あとがきでは、作家が 1986 年の講演で話した内容が紹介されています。「私が書くのは遊びだ。無目的の遊び、これが現代に最も欠けているもの。私はこれを取り戻したい」

 物語の前半、物語が描く世界にはファンタージエンを救うという、とてもわかりやすい目的がありました。だからわたしも、教訓などない胸高鳴る冒険を楽しんだバスチアンと似たような感覚で読み進められました。しかし、その目的が達成された途端、冒険そのものに大きな違いがないにも関わらず、わたしは、バスチアンがファンタージエンを救ったあと、どこに向かうのか、次々と欲求を抱き物語を作り続けるバスチアンを待ち受けているのが何か、不安を感じました。『目的』がない旅がそう感じさせたのかもしれません。

 バスチアンがそうして冒険を重ねていた (無目的という意味では、彷徨っていた) とき、そばにいて、バスチアンには帰る場所があるはずだと信じた人がいました。友だちです。バスチアンが元の居場所に帰れるよう自ら責任を引き受けた仲間です。そこには、目的も損得もありませんでした。『目的』や『損得』に囚われ、目的はなくとも価値のある何かを失ったのではないかと感じるとき、こういう本を読むのもいいと思いました。
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2023年04月03日

「ステイト・オブ・テラー」

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ヒラリー・クリントン (Hillary Rodham Clinton)/ルイーズ・ペニー (Louise Penny) 著
吉野 弘人 訳
小学館 出版

 2016 年に米大統領選挙に出馬したヒラリー・クリントンが、共著とはいえ政治スリラー小説を書いたと知って、興味本位で読んでみたのですが、期待以上に楽しめました。

 いわゆるページターナーなのですが、ページを繰ってしまう理由がいくつかありました。理由の筆頭は、主人公にあります。エレン・アダムスという 50 代女性が国務長官に任命されて間もない時期、核のボタンがいつ押されてもおかしくないという『ステイト・オブ・テラー (恐怖の状態)』が歴史的悲劇に転じるのを防ごうと奮闘します。

 彼女は、国務長官に任命される前、メディアの最高経営責任者として、ある武器商人を糾弾した結果、夫を亡くしています。そこまでの犠牲を払った経験があっても、核兵器が使用されるという最大級の悲劇を回避しようと不屈の精神で挑む姿を応援したくなります。(読者が主人公にヒラリー・クリントンを重ねて見ることを作者も想定しているはずなので、最悪の事態を回避できる結末は予想できるのですが、それでもそのプロセスを読みたくなりました。)

 さらに、政権交代や国家間の緊張関係など米国の内側からの視点に惹きつけられました。もちろんフィクションではありますが、作家たちがトランプ前大統領をどう見ているのか、オバマ大統領時代に米国が世界の警察官をやめたことをどう捉えているのか、いろいろ想像すると同時に、世の中の問題を再認識できた気がします。(日本は主に安全面で米国に依存してきましたが、その割には、日本国民の米国への関心は薄かったように思えました。)

 そして最大の魅力は、核兵器を巡り、誰が国務長官の敵で、誰が味方なのか、誰が本音を語り、誰が嘘をついているのかという謎を追う楽しみだと思います。政府も、相応の規模を有する企業と同じで、一枚岩の組織ではなく、敵が明らかになるまでのスリルとリアリティを感じつつ読むことができました。
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