2021年02月05日

「オビー」

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キム・ヘジン 著
カン・バンファ/ユン・ブンミ 訳
書肆侃侃房 出版

 以下の 9 篇が収められています。

−オビー
−アウトフォーカス
−真夜中の山道
−チキン・ラン
−カンフー・ファイティング
−広場近く
−なわとび
−ドア・オブ・ワワ
−シャボン玉吹き

 著者プロフィールによると、このなかの「チキン・ラン」が 2012 年に東亜日報の新春文芸に選ばれたことをきっかけにデビューした作家で、「オビー」が 2016 年に『今年の問題小説』に選ばれたそうです。

 周囲から肯定的な評価を得ることが少ないであろう人たちが数多く登場する短篇集です。「チキン・ラン」では、チキンのデリバリーをする男性と自殺しようとする男性のあいだで、悲壮感があるものの同時に滑稽にも聞こえるやりとりが繰り広げられます。

 「オビー」では、人との関わりが苦手なオビーが、Amazon の配送センターのような場所で非正規労働者として働き始め、陰日向なく勤めたにもかかわらず、職場で居場所を失っていくさまが描かれています。

 社会に必要とされてはいても低賃金で働く人々の暮らしは韓国も日本も似たような状況にあるように見えるいっぽう、まったく理解できない作品もありました。

「広場近く」は、見ず知らずの男から 6 歳の子供を預かった男の話です。そんな幼い子を他人に預けて仕事に行く無茶な設定が韓国ではリアリティをもって受け入れられるのかと驚きました。

「真夜中の山道」にいたっては、訳者あとがきの状況説明を読まなければ、どういった場面か理解できませんでした。説明によると、再開発が進む地域の強制撤去部隊として雇われた男たちと、籠城闘争を決起した人たちの側にアルバイトの市民運動家として参加する女が戦っているそうです。対価と交換に暴力をふるっている人々だということはわかりましたが、市民運動を生活の糧にして暴力をふるうといったことが、本当に世の中に起こっていると受けとめていいのか迷いました。

 韓国という国を垣間見ることができる短篇集でした。
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2020年12月15日

「狭き門」

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アンドレ・ジッド (André Gide) 著
山内 義雄 訳
新潮社 出版

愛と同じくらい孤独」でジッドの名があげられているのを見て、そういえば……と思い出して引っ張り出してきた本です。

 タイトルは、主人公ジェロームが牧師に読み聞かされたルカ伝第 13 章 24 節から来ています。『力を尽くして狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路 (みち) は広く、之より入る者おおし、生命 (いのち) にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者すくなし』。

 このひたすら精進することを求めるようなことばを受けてジェロームがその思いを向けたのは 2 歳年上の従妹アリサで、アリサに相応しい自分であるべく最大限努めると決めます。当のアリサもジェロームに好意を寄せ、より一層自分を高めようと決めますが、ふたりはハッピーエンドを迎えませんでした。

 アリサが考える愛や幸福は、当時の女性が思い描くようなものでもなく、ジェロームが期待するようなものでもなく、神とともにあるものでした。彼女は、日記にこう書いています。
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 いかに幸福なことであっても、わたしには進歩のない状態を望むわけにはいかない。わたしには、神聖な喜びとは、神と融合することではなく、無限にして不断の神への接近であるように思われる……もし言葉を弄することを恐れないなら、わたしは《進歩的》でないような喜びを軽蔑する、と言ってもいいだろう。
++++++++++

 神への道を進もうとするアリサは、こうも書いています。
++++++++++
 主よ、ジェロームとわたくしと二人で、たがいに助けあいながら、二人ともあなたさまのほうへ近づいていくことができますように。人生の路にそって、ちょうど二人の巡礼のように、一人はおりおり他の一人に向かって、《くたびれたら、わたしにおもたれになってね》と言えば、他の一人は《君がそばにいるという実感があれば、それでぼくには十分なのだ》と答えながら。ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです――二人ならんでは通れないほど狭いのです。
++++++++++

 アリサは、そう結論を出して、ひとり神のもとへ旅立ちました。宗教をもたないわたしは、そんなアリサに共感できませんでしたが、ジッドがアリサという登場人物に羨望にも似た優しいまなざしを向けていたように思えました。

 巻末の解説によると、ジッドの妻マドレーヌがアリサのモデル的存在だったそうです。
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2020年10月25日

「グッド・ドーター」

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カリン・スローター (Karin Slaughter) 著
田辺 千幸 訳
ハーパーコリンズ・ ジャパン 出版

 いわゆるページターナーであることは間違いありません。真実は別にあるという匂わせが数多く埋めこまれてあり、隠されている何がか気になって、どんどん読み進めてしまいます。

 クイン一家は、弁護士の父親、天才級の科学者の母親、ふたりの娘の四人家族でした。それがある日、母親が殺害されるという凄惨な事件に見舞われます。

 残された家族が何とか前を向いて生きていけるようになり、28 年という長い年月が過ぎてから、中学校で起こった銃乱射事件を機に 28 年前の事件の真相が明らかになります。その過程で、父親、長女、次女、それぞれが秘密を隠し続けてきたことが匂わされ、いずれも最後の最後に明らかになります。

 ふたりの娘が父親と同じ弁護士という職業に就き、弁護士一家となったクイン家の視点で見る銃乱射事件が物語のひとつの軸になっているいっぽう、クイン一家の家族としての再生がもうひとつの軸になっています。

 構成としては一般的ですが、わたしの好みとしては少し物足りないように感じました。理由は、ふたつあります。ひとつは、クイン一家以外で事件に大きく関わった登場人物の描写が少なすぎた点です。もうひとつは、最後の最後ですべての謎を明らかにするということにこだわったせいか、それまでの語りに隠蔽があったことです。

 そうなった理由を推測するに、すべてを最後の最後に明らかにするのと引き換えに、犯罪を隠蔽する動機を窺い知ることができるような描写が一切書かれなかったことにあるようです。

 わたしの好みとしては、クイン一家以外の登場人物にも厚みのある人物像が描けるような工夫が欲しかったところです。
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2020年10月10日

「フィフティ・ピープル」

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チョン・セラン 著
斎藤 真理子 訳
亜紀書房 出版

 題名の「フィフティ・ピープル」は、この作家が『主人公のいない小説を書きたい』と思い、それが無理なら、全員が主人公で、主人公が 50 人ぐらいいる小説がいいと思ったことからきています。でも、実際に仕上がった小説には、この作家によれば、51 人登場するとか。それぞれの主人公の話が 10 ページ前後ずつ続きます。

 韓国の作品なので、日本や米国あたりでよく見かける名前に比べ、登場人物の名前が覚えにくく、最初は読み進めるのに苦労しましたが、あるストーリーの主人公が別のストーリーの脇役として再登場してもちゃんとわかり、物語と物語を結ぶ橋のような人物を探す愉しみも味わえます。

 これだけ数多くの主人公が登場すると、どの主人公にどのような感情を抱くか、誰に惹かれるかによって、これまで見てこなかった自分自身の一面を再認識させられた気がします。人のことを想う苦しさと喜びの両面を描いているチェ・エソンとキム・ヒョッキョンのストーリーには、特に惹かれました。これほどまでに人を想うことができなかった自分は「The Missing Piece」の主人公とは違って、いつまでも転がり続けて朽ち果てたように思えました。

 娘が欲しいと思っていたチェ・エソンは、ふたりの息子の嫁ふたりのうち、人形のように明るく朗らかなユンナが事故に遭ったことを機に、ふたりの嫁のことを実の娘のように思っていることに気づきます。ヒョッキョンは、天才少女と呼ばれる同僚の医師を想うあまり、彼女をサポートするために生まれてきたも同然だと何年ものあいだ考え続けた末、とうとう彼女とのデートにこぎつけます。

 いっぽう、欲しい欲しいと思っていたわけではないのに仕事運に恵まれたヤン・ヘリョンのストーリーは、誰かが見ていてくれるという幸運をわたしに思い出させてくれました。ヤン・ヘリョンは、誰もが大切に思って当然の存在、たとえば家族のような人たち以外に対しても、その人が喜ぶ何かをしてあげたいと強く想うあまり、大けがを負いますが、仕事運に恵まれます。

 自分が望んでいたものや忘れていたものをあらためて気づかせてくれた短編連作といえるかもしれません。
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2020年03月11日

「旅に出る時ほほえみを」

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ナターリヤ・ソコローワ 著
草鹿 外吉 訳
白水社 出版

 最初に世に出されたのが 1965 年という古い作品で、1967 年に日本語に訳され (邦題は「怪獣 17P」)、1978 年に改訂 (邦題は「旅に出る時ほほえみを」) され、それがここに再刊されたそうです。

 ジャンルとしては、いわゆる SF なのですが、ヨーロッパ・アメリカ流の SF ではなく、ソ連風にいうところの『科学幻想小説 (ナウーチナヤ・ファンタースチカ)』なのだと、巻末の解説に書かれてありました。作者自身はこの物語を『現代のおとぎばなし』と称しているそうで、わたしにはそのジャンルのほうが合っていると思えました。1965 年が遠い過去になってしまったことが理由のひとつかもしれません。

 もうひとつ『おとぎばなし』らしく感じられた理由は、主人公が《人間》と称され、最初の翻訳版のタイトルになっている『怪獣 17P』を発明した者として『怪獣創造者』と呼ばれることはあっても、名前で呼ばれることはありません。

『人間』のほか、重要な役割を担う登場人物はほかにもいて『見習工』や『作家』などと呼ばれ、『むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが』と始まるおとぎばなしに似た雰囲気を感じさせます。

『人間』、『見習工』、『作家』などは、権力に憑りつかれた愚かで恐ろしい者たちに、人として最低限の権利さえ奪われてしまういっぽう、怪獣は優しさと成長を見せるあたり、『おとぎばなし』らしく感じられます。

 この物語のなかで、珍しく名前で呼ばれているルサールカという若い女性は『人間』に対してこう言います。『わたしをつれていって……怪獣のところへ。人間といっしょじゃやっていけないわ。人間といっしょだと、わたし、こわいんです』それに対して『人間』は答えます。『わたしも、そうだ』。

 この物語を象徴する会話だと思います。

 こんな会話が交わされた時代もあったと昔話のように語れるときを迎えたいと思いました。
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