2020年10月25日

「グッド・ドーター」

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カリン・スローター (Karin Slaughter) 著
田辺 千幸 訳
ハーパーコリンズ・ ジャパン 出版

 いわゆるページターナーであることは間違いありません。真実は別にあるという匂わせが数多く埋めこまれてあり、隠されている何がか気になって、どんどん読み進めてしまいます。

 クイン一家は、弁護士の父親、天才級の科学者の母親、ふたりの娘の四人家族でした。それがある日、母親が殺害されるという凄惨な事件に見舞われます。

 残された家族が何とか前を向いて生きていけるようになり、28 年という長い年月が過ぎてから、中学校で起こった銃乱射事件を機に 28 年前の事件の真相が明らかになります。その過程で、父親、長女、次女、それぞれが秘密を隠し続けてきたことが匂わされ、いずれも最後の最後に明らかになります。

 ふたりの娘が父親と同じ弁護士という職業に就き、弁護士一家となったクイン家の視点で見る銃乱射事件が物語のひとつの軸になっているいっぽう、クイン一家の家族としての再生がもうひとつの軸になっています。

 構成としては一般的ですが、わたしの好みとしては少し物足りないように感じました。理由は、ふたつあります。ひとつは、クイン一家以外で事件に大きく関わった登場人物の描写が少なすぎた点です。もうひとつは、最後の最後ですべての謎を明らかにするということにこだわったせいか、それまでの語りに隠蔽があったことです。

 そうなった理由を推測するに、すべてを最後の最後に明らかにするのと引き換えに、犯罪を隠蔽する動機を窺い知ることができるような描写が一切書かれなかったことにあるようです。

 わたしの好みとしては、クイン一家以外の登場人物にも厚みのある人物像が描けるような工夫が欲しかったところです。
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2020年10月10日

「フィフティ・ピープル」

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チョン・セラン 著
斎藤 真理子 訳
亜紀書房 出版

 題名の「フィフティ・ピープル」は、この作家が『主人公のいない小説を書きたい』と思い、それが無理なら、全員が主人公で、主人公が 50 人ぐらいいる小説がいいと思ったことからきています。でも、実際に仕上がった小説には、この作家によれば、51 人登場するとか。それぞれの主人公の話が 10 ページ前後ずつ続きます。

 韓国の作品なので、日本や米国あたりでよく見かける名前に比べ、登場人物の名前が覚えにくく、最初は読み進めるのに苦労しましたが、あるストーリーの主人公が別のストーリーの脇役として再登場してもちゃんとわかり、物語と物語を結ぶ橋のような人物を探す愉しみも味わえます。

 これだけ数多くの主人公が登場すると、どの主人公にどのような感情を抱くか、誰に惹かれるかによって、これまで見てこなかった自分自身の一面を再認識させられた気がします。人のことを想う苦しさと喜びの両面を描いているチェ・エソンとキム・ヒョッキョンのストーリーには、特に惹かれました。これほどまでに人を想うことができなかった自分は「The Missing Piece」の主人公とは違って、いつまでも転がり続けて朽ち果てたように思えました。

 娘が欲しいと思っていたチェ・エソンは、ふたりの息子の嫁ふたりのうち、人形のように明るく朗らかなユンナが事故に遭ったことを機に、ふたりの嫁のことを実の娘のように思っていることに気づきます。ヒョッキョンは、天才少女と呼ばれる同僚の医師を想うあまり、彼女をサポートするために生まれてきたも同然だと何年ものあいだ考え続けた末、とうとう彼女とのデートにこぎつけます。

 いっぽう、欲しい欲しいと思っていたわけではないのに仕事運に恵まれたヤン・ヘリョンのストーリーは、誰かが見ていてくれるという幸運をわたしに思い出させてくれました。ヤン・ヘリョンは、誰もが大切に思って当然の存在、たとえば家族のような人たち以外に対しても、その人が喜ぶ何かをしてあげたいと強く想うあまり、大けがを負いますが、仕事運に恵まれます。

 自分が望んでいたものや忘れていたものをあらためて気づかせてくれた短編連作といえるかもしれません。
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2020年03月11日

「旅に出る時ほほえみを」

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ナターリヤ・ソコローワ 著
草鹿 外吉 訳
白水社 出版

 最初に世に出されたのが 1965 年という古い作品で、1967 年に日本語に訳され (邦題は「怪獣 17P」)、1978 年に改訂 (邦題は「旅に出る時ほほえみを」) され、それがここに再刊されたそうです。

 ジャンルとしては、いわゆる SF なのですが、ヨーロッパ・アメリカ流の SF ではなく、ソ連風にいうところの『科学幻想小説 (ナウーチナヤ・ファンタースチカ)』なのだと、巻末の解説に書かれてありました。作者自身はこの物語を『現代のおとぎばなし』と称しているそうで、わたしにはそのジャンルのほうが合っていると思えました。1965 年が遠い過去になってしまったことが理由のひとつかもしれません。

 もうひとつ『おとぎばなし』らしく感じられた理由は、主人公が《人間》と称され、最初の翻訳版のタイトルになっている『怪獣 17P』を発明した者として『怪獣創造者』と呼ばれることはあっても、名前で呼ばれることはありません。

『人間』のほか、重要な役割を担う登場人物はほかにもいて『見習工』や『作家』などと呼ばれ、『むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが』と始まるおとぎばなしに似た雰囲気を感じさせます。

『人間』、『見習工』、『作家』などは、権力に憑りつかれた愚かで恐ろしい者たちに、人として最低限の権利さえ奪われてしまういっぽう、怪獣は優しさと成長を見せるあたり、『おとぎばなし』らしく感じられます。

 この物語のなかで、珍しく名前で呼ばれているルサールカという若い女性は『人間』に対してこう言います。『わたしをつれていって……怪獣のところへ。人間といっしょじゃやっていけないわ。人間といっしょだと、わたし、こわいんです』それに対して『人間』は答えます。『わたしも、そうだ』。

 この物語を象徴する会話だと思います。

 こんな会話が交わされた時代もあったと昔話のように語れるときを迎えたいと思いました。
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2020年02月23日

「サイコセラピスト」

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アレックス・マイクリーディーズ (Alex Michaelides) 著
坂本 あおい 訳
早川書房 出版

 タイトルの「サイコセラピスト」は、本書では心理療法士と訳されています。著者は、セラピーを受けて助けられた経験から、サイコセラピストになる勉強をされたようです。それだけに本作品の主人公である心理療法士セオ・フェイバーが語る内容は、専門用語も混じってリアルです。

 ただ、日本語化に際し、その「サイコセラピスト」をタイトルにしたのはマイナスだったように思います。もとの The Silent Patient のほうが、最後の最後まで結末を想像できず、より楽しめたのではないかと感じました。

 The Silent Patient とは、本作品の主人公セオがどうしても自ら担当したいと願う患者アリシア・ベレンソンのことです。夫殺しという重い罪を犯し、司法精神科施設に収容されていて、一切ことばを発しません。

 アリシアが夫を殺害する 1 か月ほど前から書き始めた日記のようなものが本作品の最初に登場し、セオの心理療法士としての仕事の展開とプライベートの結婚生活の流れの要所で挿しこまれています。この作品において鍵となるのは、この 3 本の糸がどう絡まっているかですが、わたしはついこの日記が鍵だと思いこんでしまいました。

 昔読んだ「ゴーン・ガール」に登場する日記のことが思い出され、この日記に真実があるのか、最後まで気になって仕方がありませんでしたが、日記の役割が明かされたときは、ほんの少し正義が残されていたように感じ、読後感は悪くありませんでした。

 誰が精神を病んでいるのか、それを知りたいと思ってしまうページターナーです。
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2019年12月29日

「三つ編み」

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レティシア・コロンバニ (Laetitia Colombani) 著
齋藤 可津子 訳
早川書房 出版

 暮らす国も望みや悩みも異なる三人の女性の人生が三つ編みのように編みこまれた作品です。登場するのは、インドのカースト制度の外側に位置づけられる不可触民 (ダリット) として生まれ自らの手で糞便を集めて生計を立てているスミタ、イタリアのシチリアで祖父が始めた家業を手伝う 20 歳のジュリア、カナダでアソシエイト弁護士として働きながら 3 人の子供を育てている 40 歳のシングルマザーのサラです。

 最初は何の関わりもないように見えた三人が物語が最後で綺麗に交わる構成は見事で、よくできた作品だと思わずにいられませんでした。実際この作品は、32 か国で翻訳され、様々な環境のもとに暮らす人たちに様々な言語で読まれたベストセラーです。

 巻末の解説では『いわゆるフェミニズム小説』とありますが、わたしは、そのことばに少し違和感を覚えました。日本に住むわたしが、カナダの状況を理解できているとは言い難いかもしれませんが、カナダのサラのように、人を蹴落としてでも権力ある立場に立とうとする人たちに混じって椅子取りゲームに参加すれば、男性でもサラと似た立場に追い込まれたのではないかと思いました。

 ただ間違いないのは、インドのスミタの目には恵まれているように映るであろうサラの立場でも、闘わなければ手に入らないものが数多くあるのが現実で、人はそれぞれ自分が求めるものは自分で掴み取らなければ手に入らないということだと思います。そして、行動を起こさなければ何も変わらないということも、スミタ、ジュリア、サラのように置かれた環境が違っていても、共通するのではないでしょうか。

 三人の人生が交わったのは、それぞれが自分で行動を起こした結果だということに意味があるように思えました。
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