
吉原 真里 著
晶文社 出版
ハワイ大学アメリカ研究学部教授の著者が小学生時代まで遡って自らの体験を綴ったエッセイです。英語が不機嫌なのかと思ってしまうタイトルですが、小学五年生のときに英語ができないのに英語で授業が行なわれる学校に転校することになったとか、英語圏での暮らしに溶けこめたと思ったら日本に戻る羽目になったとか、英語にかかわる不機嫌が赤裸々に語られています。
そういった学生時代の不機嫌は、成人して以降、モヤモヤした割り切れなさへと移っていきます。ジェンダーや人種、社会階層、移民など、正誤や白黒の線引きが難しく簡単には言語化できないことが多く話題にのぼり、著者自身が得た気づきも記されています。
著者は『英語ができなかった自分と、英語ができるようになってからの自分は、同じ身体をして同じ地球上を歩いていても、まったく違う人間だった』と書いています。語学を身につけるとその語学で接することのできる文化が広がり、コミュニケーションをとれる対象も格段に広がるので、そのとおりだと思います。
ただ、その広がりにも限りがあると見受けられました。著者が、ハワイ大学で教鞭をとれるほどの英語力があっても、自国以外の文化にさして興味のない米国民が Eggplant をどういった食べ物と認識しているか自らが知らずにいたことを発見するエピソードもその一例のように感じます。
同時に、語学や文化にかかわる知識や経験を得たことによって、著者は失ったものもあるのではないでしょうか。先の Eggplant の件で、著者は、自らの発見をおもしろいと捉えましたが、それは複数の文化を一定以上理解しているひとの感覚であって、たったひとつの言語を使い、たったひとつの文化圏で暮らしているひとたちの、自分たちが見ている世界がすべてだという感覚は理解できないのかもしれません。
さらに、著者のように複数の文化に通じることは、良い面もあれば、不便な面もあるように感じました。著者は、『アジア人女性の大学教授という立場で移民の janitor である男性と接することの意味と葛藤』を長々と説明し、モヤモヤのありかを示しています。このエルサルバドル移民の男性は、(証明はできませんが) 白人女性に対しては許されないと考えるであろうことを日本人の著者に対しては許されると考えました。そしてそのことは、許されると考える背景を著者がじゅうぶん過ぎるくらいわかっているから、モヤモヤするのではないかと、わたしは捉えました。
そして、そういったモヤモヤと引き換えに、著者は、自らのことを a woman of color と何気なく口にしたのではないかとわたしは想像しました。モヤモヤの原因となる背景は、長年の積み重ねの結果であり、たとえばエルサルバドルの移民男性の例で考えても、その janitor ひとりの問題ではなく、社会全体の歴史に根ざす部分が大きいからこそ、a woman of color に対する支援があってもおかしくないと感じたのではないでしょうか。
日本語だけを使う、ほとんどが日本人という環境での暮らしでは経験しないモヤモヤを疑似体験でき、自分の考え方に気づくことができた気がします。