2018年10月28日

「のりたまと煙突」

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星野 博美 著
文藝春秋 出版

 ほのぼのとした表紙に誘われ、読みました。

 最初の章立てとこの本に登場する猫の家系図 (説明書き) を見て、小説かと思ったのですが、エッセイです。読んだあとに知ったのですが、著者は、「転がる香港に苔は生えない」で第 32 回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したノンフィクション作家だそうです。

 日常的なできごとをきっかけに考えたことが書かれているのですが、わたしの場合はそれは何になるかと疑問に思ったことがありました。

 著者とそのきょうだいが大人になって両親の家を出る際に残していった子供時代の持ち物を家族で整理したときのことを書いた部分です。

 著者によれば、捨てずに残すものを選ぶものさしは、1. 忘れたくないもの、2. 自分に都合のいいもの、3. あとあとまで幸福を追体験できるかだそうです。著者の父親は、大昔、おそらく 1970 年頃に酔狂で録音した、ある晩の家族の会話のカセットテープを、遺物を整理しながら大音量で聞き続けていたそうです。このテープ 1 本さえあれば、残りの余生を十分幸せに生きていけるようだと評しています。

 わたしにとってのカセットテープは何になるのか、すぐには思い浮かびませんでした。年末に向けて、不用品を整理しつつ考えたいと思います。
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2018年10月27日

「水辺にて」

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梨木 香歩 著
筑摩書房 出版

 カヤックをしに出かけた水辺でのあれこれが綴られています。

 最初の一節、著者の視点を通して水辺を見ると、その場に対するわたしの評価も跳ね上がってしまいました。

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 水辺の遊びに、こんなにも心惹かれてしまうのは、これは絶対、アーサー・ランサムのせいだ――長いこと、そう思い続けてきた。
 ウィンダミア――初めて英国湖水地方最大のその湖の姿を見たとき、彼の小説の主人公の少年たちが――ロジャーや、ジョン、スーザンとティティたちが、「航行して」過ごした夏のことが眼前に生き生きと蘇り、胸が詰まったことを覚えている。
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 ツバメ号やアマゾン号を思い浮かべると、楽しいとしか説明しようがない雰囲気に包まれます。

 ほかにも、「たのしい川べ」(原題:「The Wind in the Willows」) の一節と、著者が水辺でネズミを見た日のできごとが交互に語られると、ほのぼのとした気分が味わえます。

 わたしは、アウトドア派には程遠いので、カヤックからの風景がこうも楽しく見えるということは、この著者の文章でしか起こりえないと思います。

 それだけではなく、理解できた水辺の背景もあります。英国を舞台とした小説でよく登場するフェンズ。なんとなく寂しく暗いイメージしか浮かべられなかったのですが、著者がこの本で引用している文を読むと、少し理解できた気がしました。

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水を征服しようと努力するときは、いつの日にか水が立ちあがるかもしれず、それによってそれまでの努力の一切が無に帰すかもしれないという覚悟が必要である。というのも、子供たちよ、万物を平坦にならそうとする性質をもち、それ自身は味も色ももたない水という物質は、液体状の<無>にほかならないではないか。そしてまた、平坦であるという属性において水とよく似たフェンズの風景は、世の中にある風景の中で、もっとも<無>に近いものにほかならないではないか。フェンズの人間なら誰でもそれを、心中ひそかに認めている。フェンズの人間なら誰でも、歩いている自分の足もとの土地がそこにないような、土地がふわふわ漂っているような……時折そんな錯覚に襲われる。
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 これはグレアム・スウィフトの「ウォーターランド」からの引用で、著者はこの本からフェンズをより深く知り、そこに紡がれるべき物語があったと理解します。かつて水をたたえていた場所を大地の一部にするよう試みるも、無に帰すかもしれない不安定さに語られるべきストーリーがあると感じたようです。

 小説を読んでイメージした作家像と見事に一致した考えだと思います。
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2018年10月26日

「ひとは情熱がなければ生きていけない」

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浅田 次郎 著
講談社 出版

 著者の小説を何冊か読んだことがありますが、エッセイは初めてだったので、自衛隊員や企業経営者を経て小説家になったという意外な経歴が珍しかったのはもちろん、学べたこともありました。

 ひとつは、日本語の文体についてです。いまわたしは、さまざまな作家の文章を読み、それぞれ文体が違うように感じていますが、それらを包括する現代の文体は、約 1400 年にわたる日本文学の歴史において、きわめて新しいものだということです。著者はこう書いています。

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日本語の自由な散文表現は、たかだか百年の歴史しかないと言っても良い。

 その百年の間には、鴎外のように漢文の骨格を大切にした作家もおり、漱石のようになよなかな和文体を用いた作家もいた。やや遅れて、芥川龍之介はその持ち前のディレッタンティズムに物を言わせて、和漢の教養の上に翻訳文の構文を融合させるという文体を創造し、志賀直哉は「話すように書く」言文一致の理想に最も適応した、わかりやすい小説文体の嚆矢となった。

 では現況はどうであるかというと、先人たちの文体とはほとんど血脈のない、純血の英語翻訳文体が主流となっている。時代が若くなればなるほど、和漢の伝統的文体は学問とみなされ、教室の外に出れば誰もが翻訳小説を読み、ハリウッド映画を見続けてきた当然の結果であろう。また文学を繞 (めぐ) る社会環境の全体も、急激にアメリカを指向してしまったので、そうした教養の吸収方法に無理や無駄がなかった。
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 自分の人生が、この百年にすっぽりと収まっているので、こうして指摘されるまで意識したことがありませんでした。

 ただ考えてみると『英語翻訳文体』が『翻訳』から生まれたのであれば、その翻訳には 2 つの言語が必要で、もとは 2 つの文体があったはずです。そのもとの日本語の文体では、いまのわたしは読めないかもしれないと思うと、『日本文学』をわたしたちの文学といえるのかと思ってしまいました。

 もうひとつは、昭和の話です。かつて銭湯にみなが通っていたころ、銭湯にある大きな鏡のなかで、ひとはそれぞれ相対的な自分の姿を認めてきたと著者はいいます。つまり、男湯では、ある者は筋骨を誇示し、ある者は老いを嘆き、女湯でも女性の規矩 (きく) に則って、同様の自己判断が行なわれていたというのです。

 いま自己評価の甘い人間が多くなったのは、この大鏡がなくなったせいではないかと著者は推測しています。自分だけが映る家庭の鏡では、他者との比較ができず、自らを絶対的視野でしか判断できなくなったというのです。

 たしかに時代とともに、職業、年齢、価値観などが違う人たちを目にする機会は減ってきているので、偏った考えで自己満足に陥らないようにしなければ……どきっとする意見でした。
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2018年10月23日

「ふふふ」

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 作家だけに幅広い分野に及ぶエッセイです。いろんな笑いをテーマにしていますが、遅筆で有名な作家としての自嘲が、鮮やかでした。

 アメリカでは『後援者募集 (バッカーズ・オーディション)』というものがあるそうです。演劇などの後援者を募集するもので、製作者が中心となって劇作家、作曲家、振付師、出演者などがいかに魅力的な企画かを後援 (投資) 候補者に説明し、資金を調達するのです。演劇があたれば、後援者には分配金が支払われます。似た仕組みで、エンターテインメントを証券化し、資金調達する場合もあります。

 著者は、自らの劇団でも証券化手法で資金を調達できないかと考えますが、相談した金融アナリストからは相手にされず、こう説明されます。
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「証券化の際の契約書を取り寄せて調べてみたところ、どんな契約書にも次の一条が書かれているんですね。それはこうです。映画、演劇の私募債については、発行の時点で必ず脚本の完成稿ができていることを必須の条件とする」
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 見事な自虐ネタです。

 もうひとつ、日本人としての自嘲も、印象に残りました。

 ボローニャという街の憲章は、『わたしたちは、この場所で、同一の法のもとに豊かな共同生活を送ることを互いに求め合う』というもので、この街では、ホームレスになっても生活を立て直すための仕組みがあるそうです。

 互いに人を人らしく再生させようと努力するこのような街に対し、著者は日本を互いに人からカネを巻き上げようと躍起になっている街と評しています。

『貧困ビジネス』などといういうことばを生んだわたしたちを 2005 年初出のエッセイですでに予見していたようです。
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2018年09月12日

「無趣味のすすめ」

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村上 龍 著
幻冬舎 出版

 著者個人の価値観が前面に出ているエッセイ集です。世の流れなどを忖度せず、自分の考えを表明している点に好感がもてました。

 そのきっぱりとした物言いに対し、受け入れられないと思ったり、なるほどと納得したり、さまざまな反応が起こる自分を見て、自らの価値観を再認識することができたと思います。

 共感できたことばを抜き出してみました。
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理想的なビジネスパートナーというのは、「その人がいなければやっていけない」ということではない。(中略) 一人でも充分にやっていける人同士が信頼とビジョンを共有することで、初めて理想的なパートナーとしての一歩を踏み出すことができるのだ。
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 ビジネスパートナーに限らず、パートナー全般に当てはまることだと思いました。
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読書というのは、必要に応じてすればいいもので、親や教師や上司に勧められて本を手に取ってもあまり意味がないし、また読書をすればそれでOKというものでもない。(中略) 読書が重要なのではない。情報に飢えるということが重要なのだ。
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 日々本を読むなかで、どうして自分が本を読むのかわかっていませんでした。情報に飢えているという自覚があるから本を読み続けているように思えました。

 同意できない内容であっても、著者の意見がすんなりと伝わってきたのは、さすが売れる本を書き続けている作家だと思います。
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